文化文政風俗絵巻之行列というお祭りに参加してきました話はここで書きました。
ではなぜこのお祭りに参加することになったのか?
今回は妻籠と僕について書きたいと思います。
始まりは、40数年前。僕が生まれるもっと前。「妻籠宿ブーム」が起こる前の話です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
19歳の彼女は初めて友人と妻籠を訪れました。
(昭和40年頃ですね。彼女の現在の歳がばれてしまいますが・・)
「妻籠」を目的とした旅ではなく、信州旅行の中の一箇所が妻籠でした。
そこで彼女は、歩く道を間違えてしまいます。
当初の予定では、妻籠を通り、バスで飯田に行って、飯田のユースホステルに泊まる予定でした。
ところが、道を間違えてしまったことで、妻籠のちょっと横の大妻籠で、夕方を迎えてしまいました。
その時、彼女はバスの時間を聞くためにとあるお宅に入ります。
それが、今もお世話になっている「波奈屋」さんです。
当時の波奈屋さんは、民宿を始められたばかりの頃で、彼女曰く、
「バスの時間を一番聞きやすそうな雰囲気の家を選んだ」とのことです。
ちなみに、当時、周りのお宅はみんな民宿ではなく「蚕(かいこ)」を飼っておられたようです。
波奈屋さんの奥さんに「もう飯田行きのバスは無い」ということと、
「お困りのようであれば、最近民宿を始めたので、泊まってもいいよ」ということを言われたそうです。
「本当に助かった」と彼女は今も言います。
泊まるとこを確保した彼女は、電話を借りたい旨を波奈屋の奥さんに申し出ます。
予約している飯田のユースホステルにキャンセルの電話をしないといけないからです。
ところが当時の大妻籠で、電話のあるのは一軒だけ。
それが、今もお世話になるもう一軒のお宿「つたむらや」さんです。
現在、宿泊の部屋になっている「つたむらや」さんの2階も、当時は、お蚕さんでいっぱいだったそうです。
一泊お世話になった「波奈屋」さん。 電話を借りた「つたむらや」さん。
次の日からは無事に信州旅行の続きを彼女は楽しんだようです。
・・・ここで、普通ならば話は終わるのですが、彼女は波奈屋さんにお礼状を出します。
「泊めていただいて、大変助かりました・・・云々」
すると、お礼状に対するお礼状が波奈屋さんから彼女の元に届きました。
まさか、そんなものが送られてくると思っていなかった19歳の彼女は、そのお礼状に大変感動しました。
そして、再びお礼状を出すのです。
そして次の年。彼女は、別の友達を連れて、挨拶がてら、また大妻籠を訪れます。
「波奈屋」さんに泊まり。まだ民宿をする前の「つたむらや」さんに挨拶に行く。
そのうち、いわゆる当時の雑誌「アンアン」などが妻籠を取り上げて、「妻籠宿ブーム」が訪れました。
宿泊客が増え、養蚕中心だった大妻籠の多くの家も、民宿を始めます。
つたむらやさんも民宿を始められました。
その頃にはすでに、彼女は様々な友達を連れて毎年のように「波奈屋」さんと「つたむらや」さんを訪れていたようです。
・・・ちなみに、毎年のように大妻籠を訪れる彼女のことを、彼女の両親は不審に思います。
「好きな男でも住んでるのではないか?」
そこで彼女は彼女の母を連れて大妻籠を訪れます。そこで彼女の母は納得したそうです。
宿の雰囲気、宿の方々の優しさ。「毎年ここを訪れる理由が解かった・・」と。
そのうち彼女は結婚し、今度は夫と訪れます。
(夫と彼女の弟と3人で訪れたり、夫と彼女の母の3人で訪れたり)
そして子供が生まれ、家族で毎年のように大妻籠を訪れました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
まあ、その「子供」が僕です。「彼女」は僕の母です。
幸か不幸か、僕にとっての「家族旅行」はほぼすべて「木曽」「妻籠」です。
他の場所に行った記憶がほとんどありません。
・・記憶どころか、僕の小さな頃の「家族旅行」の写真もほとんどが「木曽」です。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
彼女の子供が中学生になり「家族旅行」などに行かなくなり、彼女はしばし大妻籠を訪れなくなりました。
しばし大妻籠を訪れなくなりましたが、彼女の子供が19歳になったとき。
彼女の子供は一人で大妻籠を訪れました。
以後、彼女の子供は、自分の友人を連れて妻籠を何度も訪れるようになりました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本当に不思議な縁だと思います。
「よくここまで続いたなあ」というのが正直な感想でしょうか。
そんなこんなで僕も友達を連れて、木曽路を訪れるようになりました。
ただし。まだ「文化文政風俗絵巻之行列」のことは何も知りません。
・・なんとなく晩御飯の時にお宿でそんなお祭りのお話を聞いたような気もしますが、
「ふ~~~ん」っていう感じで、記憶には残っておりませんでした。
では、どうしてそのお祭りに出ることになったのか?
その話は次回にいたしましょう。